●世紀転換期に欧米で吹き荒れた反東洋、黄禍論に関する同時代の一次資料を集成する新シリーズ
●第1回配本は「怪人フー・マンチュー博士」シリーズに代表される英国の小説9編の初版、または今日の研究に重要な版を、図版含め復刻
編者より 橋本順光
日英同盟(1902)のせいだろうか、英国で黄禍論というのは奇異に響くかもしれない。たしかにオーストラリアを別とすれば、アメリカとちがって国内には東洋系移民が少なく、帝国主義政策においても、ドイツやフランスのように黄禍の脅威を利用することはあまりなかった。しかし、それだけに、英国本国では黄禍論をむしろ娯楽として消費できる素地があったといえる。阿片窟で陰謀をめぐらす東洋系悪役の原型となったフー・マンチュー博士シリーズ(1913-1959)は、そもそも英国の産物である。橋川文三が『黄禍物語』(1976)のなかで、参考書になるかと思って閲覧して失望するYellow Danger (1898)は、そんな黄禍論小説の先駆けにほかならない。本小説集は、これまで等閑視されてきた娯楽としての黄禍論の系譜を、大衆小説や戦記小説の伝統のなかでたどる試みである。
橋川の『黄禍物語』にはまた、“ジョン・チャイナマン”の手紙(1901)についての一章がある。義和団事件での列強の介入について、中国人が批判したという設定の書簡集だが、橋川も誤解したように、刊行当時、本当に中国人が書いたと信じる人々がいた。ちょうどそのころ、東洋の知識人たちは盛んに英語で発言し始めていたからである。実際、曾国藩の息子である曾紀沢、末松謙澄、大隈重信、シュリ・オーロビンドなど、立場の相違はあれ、彼らの言論活動は、黄禍論へと援用されることもしばしばだった。本シリーズの資料集では、英国で黄禍論がどのように論じられ、反論され、流用されたのか、いわばメディア戦争の先駆を再現したい。そうすることで、黄禍論小説とジャーナリズムが興味深い触媒反応をおこしていたことが明らかになるだろう。
アジアのナショナリズムやアジア主義と複雑に絡み合った黄禍論、そして、その議論を巧みに流用しつつ、黄禍論を刺激していったアジア幻想、そんな英国での知られざる系譜を本シリーズは復刻しようとするものである。
■収録作品■
第1巻[約560頁]
Introduction by Yorimitsu Hashimoto
Hemyng, Bracebridge, Jack Harkaway and His Son’s Adventures in China
London: “Boys of England” Office, 1895: pp.171.
Jack Harkawayとその息子、後には孫が、世界中を冒険しながら成長してゆく人気シリーズの中国物。ジョージ・オーウェルが「少年週刊誌」(1940)で分析したような、いつまでも変わらない中国と中国人というステレオタイプの代表例。Penny Dreadfulからの系譜を受け継ぐその中国人の悪役は、Fu Manchuの原型の一つに。
Shiel, M. P., The Yellow Danger
New York, R. F. Fenno & Co.; London, G. Richards, 1899: pp.388.
変わりゆく東洋事情を巧みにとりこんだ、英国における黄禍論小説の嚆矢。父が日本人、母が中国人というYen Howは、伊藤博文と李鴻章を説得し、日中同盟を成立させ、西洋に復讐を始める。著者は、アイルランド系で西インド出身。既にRoutledgeから復刻されている初版(London, 1898)でなく、アメリカについての記述を変更したアメリカ版。
第2巻[約390頁]
Henty, George Alfred, With the Allies to Pekin: A Tale of the Relief of the Legations
London, 1904: Blackie & Son, 1903: pp.384.
Hentyはヴィクトリア朝後期を代表する冒険小説家で、これは義和団事件に取材した作品。ここで早くも描かれた日本の微妙な位置は、映画『北京の55日』(1963)まで連綿と続くことになる。それはまた、Jack Harkawayのような従来の冒険小説では、西洋化・近代化しはじめた東洋を描きにくくなったということでもある。
第3巻[約325頁]
Griffith, George, The Stolen Submarine: A Tale of the Russo-Japanese War
London: F. V. White & Co., 1904: pp.320.
Griffithは、飛行船の脅威を描いたThe Angel of the Revolution (1895)が既に復刻され、Wells以前のSF作家として有名だが、黄禍論をしばしば訴えた。ここでは飛行船ではなく、潜水艦の脅威を描く。日露戦争を舞台にした英国の多くの小説がそうであるように、この作品も日本を好意的に描いているが、かわりに中国の不気味な博士が登場する。
第4巻[約320頁]
Sedgwick, Sidney Newman, The Last Persecution
London: Grant Richards, 1909: pp.314.
未来の1946年、バッキンガム宮殿に君臨するthe Ping Wangは、キリスト教を禁じ、孔子崇拝の徹底を布告する。そうして起こる拷問と殉教の数々。英国では珍しく、中国人による英国征服を描いた終末論的小説。
第5巻[約320頁]
Dorrington, Albert, The Radium Terrors
London: Eveleigh Nash, 1912: pp.316.
日本人の科学者、Teroni Tsarka博士が、ラジウムを使って西欧世界の転覆を謀る小説。最終兵器としての細菌兵器は十九世紀末の小説でしばしば登場し、The Yellow Dangerなどにも見られるが、発見まもないラジウムを使ったところが目新しい。
第6巻[約300頁]
Westerman, Percy F., When East Meets West: A Story of the Yellow Peril
London: Blackie & Son, 1913: pp.292.
Osaka Toyaなる日本人スパイが暗躍するなか、日中同盟軍が西洋に反旗を翻す。Shielが二番煎じのThe Dragonを書いた同じ年に、彼のThe Yellow Dangerのプロットを、人気作家Westermanは巧みに換骨奪胎してみせた。これ以降、著者は、両大戦を舞台にした少年向け冒険小説を百冊以上書き続けることになる。彼が好んで描いた飛行機はこの小説にも登場。
第7巻[約440頁]
Lengyel, Melchior, Typhoon: A Play in Four Acts / English Version by Laurence Irving
London: Methuen, 1913: pp.120.
レンジェルは、『ニノチカ』などで知られるハンガリーの劇作家で原作はドイツ語。しかし、この戯曲も翌年には早川雪洲主演で映画になったように、英語圏で広く流布。殉死を厭わない日本人スパイたちとその陰謀という主題は、その後の黄禍論小説の定番に。
Rohmer, Sax, The Mystery of Dr. Fu-Manchu
London: Methuen, 1913: pp.308.
黄禍論小説の代表作。チャイナタウンの阿片窟にアジトをもち、国際暗殺団をあやつるフー・マンチュー博士と、その陰謀に戦いを挑むペトリーとスミス。シャーロック・ホームズの型を踏襲しつつも、圧倒的な存在感をもつのは、Yen Howの末裔ともいうべきフー・マンチューにほかならない。多数、復刊はあるものの、今回は稀覯な初版を初めて復刻。
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