明細

ラフカディオ・ハーン
とチェンバレン

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分野:日本研究、国際文化、比較文化、言語学、英文学、国語・国文学

コレクション・ジャパノロジスト第4回配本 [シリーズ監修:芳賀徹]
B. H. チェンバレン著作集
第1期:日本研究書籍集成 全8巻

Collected Works of Basil Hall Chamberlain:Part 1: Major Works
付録:「バジル・ホール・チェンバレン先生追悼記念録」(和文)

ISBN 4-931444-10-5
約4000頁 (全8巻)+ 付録106頁
品切れ
2000年2月刊行

追悼録より---

・・・チェンバレン教授の功績はその死によって滅するものではなく、否、却ってその死後益々光彩を放つと謂うべきであって、今後この方面に於て後継者が続々出現することを衷心より望み且つ信じる次第であります。−−−外務大臣(当時)廣田弘毅

・・・少なくとも外国人で日本を研究する者にしてチェンバレン先生の授けを得ずにその目的を達するということは望めないことだと思います。−−−駐日英国大使(当時)ロバート・クライブ

・・・ハーンが文豪として麗筆を以って多少美化された日本を海外に紹介されたに対しまして、チェンバレン先生は学者として、日本の事物を客観的に、事実有りの侭を凡ゆる方面から研究されまして、或いは言語、文学、宗教、歴史、風俗、色々な方面に於て何れもパイオニアとしての業績を遺された。−−−市河三喜

…チェンバレン先生の古事記英訳は日本人以外の人がそれを読んで大いに日本研究の頼りとせられるべきのみならず、その古事記の出来たところの日本国の人をも大いに啓発せられたのであります。−−−三上参次

・・・(日本人による最初の日本語文典)に先立つこと約20年にあのハンドブック(A Handbook of Colloquial Japanese)が出版されたということは、我々国語を研究して居る者にとりまして、チェンバレン先生に感謝の意を十分に表さなければならないと思う、
・・・先生はわが日本の博言学の開発者であり、言語学の基を開いた先輩である・・・−−−新村出

・・・私共のやって居ります学問の、チェンバレン先生はほんとうの生みの親であられた・・・・。 −−− 金田一京助

明治期の西洋における日本像に最も影響を持った人物として、ラフカディオ・ハーンと肩をならべる王堂チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 1850-1935) は、現在ではアストン、サトウとともに日本学の三大巨人とも称されています。

天性の語学の才能を持った若きチェンバレンは、1873年に来日、海軍兵学校の英学教師の職を得る一方で日本語、琉球語、アイヌ語、朝鮮語などの研究を本格的に始め、研究成果を精力的に発表、出版してゆきます。それらは当時を代表する日本の研究者にも高く評価され、ついに森有礼の推薦で1888年に帝国大学日本語学および博言学(後の言語学)の初代教授に就任するのです。マックス・ミュラーの比較言語学理論を主に用いた彼の講義は、日本語を客観的な学問の対象とし、日本での言語学の礎を築くことに貢献します。帝国大学において、日本人が外国人から自国語を学ぶことに強い屈辱感を持つ人達もいましたが、彼の存在は日本の学界に強い刺激をあたえ、教え子のなかから上田万年、芳賀矢一、岡倉由三郎など後世名を成す国文学者、言語学者が輩出されました。

1911年に最終的な離日をするまで日本研究を続けたチェンバレンは、日本語文法書の決定版「日本語口語文典」、世界で初めての日本百科ともいえる「日本事物誌」、万葉集を中心に日本の古典を論じた「日本の詩歌」、サトウらによる「中部・北部日本旅行案内」を引き継ぎ刊行された「日本旅行案内」、そして「英訳古事記」など多くの出版物を発表します。それらは日本人自身の日本観や日本語観に大きな影響をあたえ、彼の死去に際して東京で催された会では、当時の外務大臣廣田弘毅、英国大使ロバート・クライブ、そしてサンソム、新村出、金田一京助、佐々木信綱らの学者が追悼の講演をしました。

近年日本では、同時代に日本に滞在し、協力から対立へと変わっていったチェンバレンとラフカディオ・ハーンの間の往復書簡や、愛知教育大学付属図書館に所蔵される杉浦藤四郎宛書簡などを基礎資料にした、多角的な西洋と日本の比較文化研究が進んでいます。

今回初めて集成されるチェンバレン著作集は、第1期にて単行書として公刊された日本研究を全て網羅、第2期にて数多くの雑誌別冊、論文を纏め、チェンバレンの日本学の全体像を再確認する試みです。

B. H. チェンバレン第1期 収録明細

Volume 1: Introduction by Richard Bowring

A Romanized Japanese Reader, Consisting of Japanese Anecdotes, Maxims, etc., in Easily Written Style, with an English Translation and Notes,1st ed. London, 1886
A Simplified Grammar of the Japanese Language (Modern Written Style), 1st ed. London, 1886
[代表的日本語テキスト2点の初版]

Volume 2: A Handbook of Colloquial Japanese, 4th ed. London, 1907
[日本語口語文典:多くの日本語テキストが出版されている今日でも使われつづけている日本語文法書の決定版。チェンバレン自身による最終版第4版。]

Volume 3: A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing (Moji no Shirube) 2nd ed. London & Yokohama, 1905
[文字のしるべ第2版。:日本語に関するチェンバレン最後の著作。]

Volume 4:Japanese Poetry, 1st ed. London, 1911
[日本の詩歌:万葉集を中心に日本の古典を論じた「日本の古典詩歌」1880年刊を大幅に改訂したもの。初版]

Volume 5:Translation of "Ko-ji-ki" or "Records of Ancient Matters", with annotations by the late W. G. Aston, 2nd ed. Kobe, 1932
[英訳古事記:アストンによる注釈入りの第2版。チェンバレンは日本語学習を始めてからわずか7年にして古事記翻訳に取り組む。ハーンもこの英訳古事記を来日前に読んでいたとされる。]

Volume 6:Things Japanese, Being Notes on Various Subjects Connected with Japan, 1st ed. London & Tokyo, 1890
[日本事物誌:初版。世界で初めての日本百科。第6版まで版を重ね欧米人の間で半世紀にわたり最も信頼できる事典として使われた。]

Volume 7:Moeurs et Coutumes du Japon, traduction de Marc Loge, d'apres la cinqieme edition anglaise, revue et augmentee par l'auteur, Paris, 1931
[日本事物誌仏語版:初版。チェンバレン自身が増補した仏訳版。大本教やラフカディオ・ハーンに関する英語版にはない記述が含まれている。]

Volume 8: A Handbook for Travellers in Japan (Including Formosa), With W. B. Mason,9th ed. London & Yokohama, 1913
[日本旅行案内:チェンバレンと共著者メーソンの手による最終第9版。サトウらによる「中部・北部日本旅行案内」を引き継ぎ刊行された。]

付録:「バジル・ホール・チェンバレン先生追悼記念録」(和文)
[昭和10年3月9日東京で開催された追悼講演録。]

●ラフカディオ・ハーンとチェンバレン●
同年(1850年)生まれの二人であるが、ハーンの来日(1890年)はチェンバレンより17年遅く、チェンバレンは既に帝国大学教授として名声を博していた。二人の関係は、ハーン来日直後にチェンバレンが高等商業学校での英語教師の職を斡旋したことにより始まり、当初は最高の親友ともいえる協力関係が続く。しかし、彼らの日本観の相違は時とともに深まってゆき、ハーンの日本での初めての著作「見知らぬ日本の面影」はチェンバレンに献呈されていたものの、チェンバレンはこれを酷評する。その後国家神道や教育勅語など多くの問題について両者の論争は激しくなり訣別にいたる。あくまで「作家」として主観的に日本を愛したハーンと、客観的な「学者」として日本を研究したチェンバレン。日本の国籍を得て日本人として没したハーンと、コスモポリタンとしてジュネーブで生涯を終えたチェンバレン。両者の比較研究はそれ自体が比較文化研究の永遠のテーマともいえるであろう。彼らの間には334通にも上る書簡が残されている。