『オシアン協会会報1853-1858』 |
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● 1853年にダブリンで設立された、オシアン協会の会報全号を完全復刻。 ● 18世紀にスコットランドのジェイムズ・マクファーソンにより収集され、スコットランドで書かれたものと誤って伝えられた、ケルトの一連の叙事詩「オシアン」の源はアイルランドにあると主張した、ジョン・ドノヴァン、ユージーン・オカーリなどアイルランドの研究者達が設立した協会で、アイルランド研究に大きな足跡を残した。 ● 後のアイルランド文芸復興運動の糸口ともなった本協会の発表の場となったこの雑誌は、アイルランド文学・歴史、そしてケルト文化全般の様々な研究に利用できる貴重な文献。 ● 各巻、ケルト詩の英訳と詳細な注釈、解説を掲載。 ● 編者による解説に加え、難解なケルト詩の読解を助ける日本語注釈も付録。 ● W. B. イエイツは勿論、その後のジョイス、ベケットなど広くアイルランド文学研究に必携。 Contents:- 監修者の言葉 1853年3月17日、セント・パトリックス・デーを期して、ダブリンのトリニティ・カレッジ近くにある書店に、数人の人物が集まった。彼らがオシアン協会を設立したのは、その2か月後の5月9日だった。この協会の目的は、フェニアン伝説、すなわちフィン・マク・クールを頭領に戴くフェニアン(戦士)たちを主人公とした詩や物語を、古文書や民間伝承のなかから掘り起こして、アイルランドの言語と文字で印刷し、忠実な翻訳とともに、世に問おうというものだった。 さらに見逃せないのが、第4巻の『常若の国のオシーンの歌』である。これは18世紀の詩人ミホール・コミンの作品である。フェニアンたちを主人公とした詩や物語は、アイルランドでは最も人気があり、18世紀に至るまで、次々と新しい作品が生まれ続けたが、これは、その最後を飾るものと言えよう。これが現代において注目されるのは、それまでオシーン(スコットランドではオシアン)を主人公として断片的に語り伝えられてきた「浦島伝説」の集大成が、この詩であったということのほかに、W. B. イェイツが1889年に発表して、いわゆる 多くの作品には、詳しい注が付けてある。ときには、膨大な量に及んでいるものもあって、編者たちの意気込みをうかがわせる。彼らの脳裏には、18世紀に「オシアン詩」を世に出して、大評判となったスコットランドのジェームズ・マクファーソンがあったに違いない。つまり、フェニアン伝説は、本来アイルランドに起こり、それがスコットランドにも伝わったものであって、本家はこちらなのだ、という意識が、膨大な注釈となって現れたのだろう。アイルランド神話・伝説の研究は、20世紀に長足の進展を遂げたが、その重要な土台となった本協会の活動は、今も独自の光彩を放っている。 Transactions of the Ossianic Societyの復刻版を推薦いたします 私が初めてイェイツの「オシーンの放浪」に出会ったのは40年以上前のことである。難渋しながらも読んでいくうちに日本の常世国のような楽土が頭に浮かび、ダグラス・ハイドの『アイルランド文学史』(1899) の頁をめくると、 ジェイムズ・マクファースンの『オシアン』の出版 (1762) はアイルランドにおける古代・中世の古文書の研究に火をつけ、拍車を掛けたと言ってよいだろうが、オシーンならびにフィン・マクールの率いる戦士団に関係する物語や詩を刊行することを目指して19世紀半ばに結成されたオシアン協会は圧倒的な存在感をもっていたと思われる。「内容の信憑性や古俗に関して責任はもてないが、味わいのある最近のフェニアン詩」として『常若の国のオシーンの歌』を掲載することにしたのはオシアン協会の英断だった。これに想を得て書き上げた物語詩「オシーンの放浪」によって、イェイツは詩人としてデビューしたのであり、さらに、さまざまな形で残るティール・ナ・ノーグの民間伝承が広く採集され、「常若の国」はあまねく知られるようになった。そして、あのアイルランド文芸復興運動の中でイェイツを支えたグレゴリー夫人が『神々と戦士たち』(1904) を書くにあたって、随所に『オシアン協会会報』を参照しているのは興味深い。また、オシアン詩全体の枠組みとなる「オシーンとパトリックの対話」(第4巻)をはじめ、フェニアン(戦士団)物語の骨格をなす『ガウラの戦い』(第1巻)や『ディアミッドとグラーニャの追跡』(第3巻)をいち早く世に出した功績は大きい。 この度、日本におけるアイルランド文学研究の碩学、佐野哲郎氏の監修で『オシアン協会会報』全6巻が復刻されることを心から喜びたい。きっと多くの人が『会報』に漂う熱気に武者震いすることであろう。 |